田んぼのわきで打製石器を見つけた朝
村の朝は早い。村人が総出で農道の改修や田んぼの水路の泥かきをすることを「普請(ふしん)」といい、たいていは日曜日の朝5時すぎから作業が始まります。5時半集合、ということになっているのですが、なにせみんな早起きで、集合時間の前に作業が始まってしまうのです。
山形県朝日町の山あいの村にある実家では母親が一人で暮らしていたため、去年まで普請の仕事は免除されていました。私は隣の地区にある団地に住んで通いで介護をしていたのですが、今年の1月に母親が90歳で亡くなったため、週末は私が空き家になった実家で暮らすようになりました。遺品や荷物を片付けてリフォームを済ませ、秋には実家に引っ越すつもりです。
というわけで、引っ越しの前なのですが、村の人から「普請があるよ」とお誘いがかかり、このあいだの日曜日に私も参加しました。「主な作業は田んぼの畦(あぜ)の草刈りと農道の側溝の泥かき」と教えてもらったので、草刈り鎌のほかに、先のとがったスコップ(剣スコ)と四角いスコップ(角スコ)を持ってでかけました。側溝の泥かきには剣(けん)スコより角(かく)スコの方がいいからです。
現場に着いてすぐ、ずっと村で暮らしている人との差を見せつけられました。草刈り鎌などを持ってきているのは私ともう一人くらい。あとは各自、エンジン駆動の草刈り機を肩からぶら下げています。側溝からすくい上げた泥を運ぶために、軽トラックで来た人も何人かいました。こちらは徒歩で、手に草刈り鎌。「新米の村人」には機動力も機械力もありません。草刈りはお任せして、私は側溝の泥かきに専念しました。
1時間ほど泥かきをして作業が終わりかけた頃、泥の中から奇妙な石を見つけました。こびりついた泥を落としてみると、細長い打製石器でした。長さ8センチ、幅3センチほど。木にくくりつけて槍として使った石器のように見えます。それほど驚きもしませんでした。と言うのも、生まれ故郷の朝日町には旧石器時代や縄文時代の遺跡がいくつもあり、打製石器や古い土器がたくさん見つかっているからです。
一部の考古学者の間では、朝日町は旧石器が日本で初めて発見され、記録されたところとして知られています。こんなことを書くと、「何を言ってるんだ。旧石器が日本で初めて発見されたのは群馬県の岩宿(いわじゅく)だ。行商をしながら考古学の研究をしていた相沢忠洋という人が見つけて、明治大学の研究者が1949年(昭和24年)の秋に記者会見して発表している。どの教科書にも書いてある」とお叱りを受けそうです。
確かに、どの教科書にもそう書いてあります。しかし、相沢忠洋氏が旧石器を発見し、明治大学の研究者がその成果を発表する前に、実は山形県朝日町の大隅(おおすみ)というところで旧石器が多数見つかっており、地元で小学校の教員をしていた菅井進氏が1949年発行の考古学の同人誌『縄紋』第三輯に「粗石器に関して」という論文を寄稿していたのです。岩宿遺跡についての発表の半年前のことでした。
けれども、東北の寒村での発見。小学校の教員が書いた論文は、考古学者の目に触れることはありませんでした。たとえ、目にとまったとしても、当時の考古学会では「日本には旧石器時代はない」というのが常識でしたから、黙殺されたことでしょう。岩宿遺跡の旧石器が「日本初」として記憶されるに至ったのは、相沢忠洋氏の尽力に加えて、その成果が明治大学の著名な考古学者によって発表され、その後も継続して発掘調査が行なわれたからです。大隅の旧石器は世に認められることなく、歴史の谷間に埋もれてしまったのです。
考古学の研究史に残ることはありませんでしたが、群馬県の岩宿よりも先に山形県の大隅で旧石器が発見され、記録されていたという事実は消えません。そして、大昔、新潟県境に近い山形のこんな山奥で多くの人間が暮らしていたのは確かなのです。朝日町には大隅遺跡以外にも旧石器時代の遺跡があり、縄文時代のものとみられる遺跡もたくさんあるのです。
さらに興味深いのは、この町には発掘調査が行なわれなかった遺跡もかなりある、と考えられることです。私の実家がある太郎地区の遺跡もその一つです。小学生の頃(今から半世紀前)、村のおじさんから「こだなものが出できた」と、打製石器をいくつかもらいました。この場所は県や町に届けられることなく、農地としてそのまま開墾されたと聞きました。戦後の食糧難の時代、農民は何よりも食糧の増産を求められていたました。役所に「遺跡が見つかりました」と届け出て発掘調査などされたのでは、仕事にならなかったからです。
黙って開墾し続け、石器や土器を片隅に追いやった村人の気持ちも分かります。朝日町のほかの地区でもこうした例があったと聞いています。私の故郷だけの話ではないでしょう。全国各地でこうしたことがあったと考えるのが自然です。近年はともかく、戦前、戦後の時期に考古学者が発掘することができたのは、見つかった遺跡のごく一部と考えるべきでしょう。
そして、思うのです。今、わが故郷の朝日町は過疎に苦しんでいますが、旧石器時代や縄文時代にはとても暮らしやすいところだったのだろう、と。遺跡はいずれも、日当たりのいい河岸段丘にあります。秋、山ではクリやドングリがたくさん採れ、最上川や支流の朝日川にはサケが群れをなして遡上してきたはずです。厳しい冬を生き抜くための糧が得やすい場所だったのです。もちろん、旧石器時代を懐かしんでも何の足しにもなりません。けれども、そこには、厳しい過疎の時代を生き抜き、新しい時代を切り拓いていくためのヒントが何か潜んでいるような気がするのです。
(岡)
《写真説明》
山形県朝日町の太郎の田んぼで筆者がみつけた打製石器
群馬県・岩宿で相沢忠洋氏が発見した黒曜石の槍先形尖頭石器
(Source: http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/tenji/sentouki/sentouki.html )
《参考サイト》
戸沢充則・明治大学学長の講演「岩宿遺跡より早かった大隅遺跡」抄録(朝日町エコミュージアム協会)
http://asahi-ecom.jp/?p=log&l=182924
大隅遺跡発見の経緯(同)
http://asahi-ecom.jp/?p=log&l=179860
明治大学HPの考古学関係(岩宿遺跡)
https://www.meiji.ac.jp/museum/kouko.html
相沢忠洋記念館
http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/index.html
群馬県みどり市岩宿博物館
http://www.city.midori.gunma.jp/www/contents/1000000000589/
《参考文献》
◎『朝日町史 上巻』(朝日町史編纂委員会、朝日町史編集委員会編、2007年発行)
◎『人間の記録 80 相沢忠洋 「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて』(相沢忠洋、日本図書センター)
◎『日本の旧石器文化』1~4巻(雄山閣出版)
◎『日本考古学を見直す』(日本考古学協会編、学生社)
*メールマガジン「小白川通信 28」2015年7月10日より転載
一行の詩のためには
つらい事や切ない事があると、思い出す言葉があります。チェコのプラハ生まれの詩人、リルケの言葉です。
一行の詩のためには
あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を
見なければならぬ
あまたの禽獣(きんじゅう)を知らねばならぬ
空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし
朝開く小さな草花のうなだれた羞(はじ)らいを究めねばならぬ
追憶が僕らの血となり、目となり
表情となり、名まえのわからぬものとなり
もはや僕ら自身と区別することができなくなって
初めてふとした偶然に
一編の詩の最初の言葉は
それら思い出のまん中に
思い出の陰から
ぽっかり生れて来るのだ
〈リルケ『マルテの手記』(大山定一訳、新潮文庫)から〉
この文章に接したのは今から30年前、新聞社の編集部門に配属されている時でした。新聞記者として入社したのに失敗を重ねて編集部門に回され、記事を書くことができない立場にありました。他人の書いた原稿を読み、それに見出しを付けて紙面を編集する日々・・・。鬱々としている時でした。「何を甘えているんだ。お前はあまたの都市を見たのか。あまたの書物を読んだのか」。そんな言葉を突き付けられたようで胸に染み、忘れられない言葉になりました。
その後、取材する立場に戻り、外報部に配属されました。アフガニスタンの内戦取材に追われ、インドの宗教対立のすさまじさにおののき、インドネシアの腐敗と闇の深さに度肝を抜かれて、心がすさんでいくのが自分でも分かりました。走りながら、なぐり書きを繰り返すような毎日。そんな時に、またこの文章に戻って反芻していました。「いつの日にか、心にぽっかりと浮かんだものを書ければ、それでいいではないか」。そう思うと心が安らぎ、また歩き始める気力が湧いてくるのでした。
『マルテの手記』は、リルケが30歳代半ばの時の作品です。パリで暮らす貧乏詩人を主人公にした長編小説で、妻子と離れてパリで暮らしていたリルケ自身の生活を投影した作品と言われています。極度の貧困と壮絶な孤独。随筆を連ねるようなタッチでパリ時代を描いています。全編が詩、と言ってもいいような作品です。冒頭の文章は『マルテの手記』の一部を抜粋したもので、句点を省いて詩の形式にしてあります。
(岡)
《写真説明》 詩人ライナー・マリア・リルケ(1875-1926年)
Source:http://www.oshonews.com/2011/10/rainer-maria-rilke/
森づくり活動報告会に参加しました
1月17日(土)、「平成26年度 置賜地区 森づくり活動報告会」に行って参りました!
主催は、山形県とやまがた公益の森づくり支援センターです。山形県の環境エネルギー部みどり自然課の職員の方も事務局スタッフとしてご活躍されていました。
実践教育プログラムでは、公共政策スタディーズ・コースの履修生が、県の環境エネルギー部さんで来月2月よりインターンシップに参加させていただくことになっています。お忙しいところにも関わらず学生に機会を与えてくださり、本当にありがとうございます!参加する学生は、ガツガツ勉強してきてくださいね。
今回はそのインターンシップに参加する学生1名と、わたくしゴーナイで会に参加してきました。
森づくりリレー旗の返還
森づくり活動報告会では、やまがた緑環境税活用事業の助成を受けた、県民による森づくりの取り組みについて、発表とディスカッションが行われました。一言で「森づくり」といっても、その内容は、森林の環境維持や整備から森を活用した環境教育まで、実に多様です。会場では、地域の任意団体やNPO、企業や行政計30団体の森づくり活動について、ポスターの展示が行われました。またその中の6つの団体の活動について、全体でのプレゼン発表が行われました。
発表のうち特に興味深かった例は、大江町沢口区若者会さんの「森づくりと一体となった木質バイオマスの利活用――七軒薪づくりプロジェクト」です。山林は人の手が入らなくても荒れていってしまいます。薪を生産し山林の利用を促すことができれば、荒廃を防げるのではないか。このような問題意識から、地区の有志は、薪の販路開拓のため、さまざまな取り組みをはじめます。情報収集のために勉強会を開き、大学と協力して薪ストーブユーザーの市場調査を実施。またユーザーへの情報発信のための薪割りイベントを催し、薪生産者育成のため講習会を開きます。さらに町にはたらきかけて小学校改修に際して薪ストーブの導入を提案し...と八面六臂です。すごいです。
そして、このような市民の活動を支え、交流の機会をつくる行政の役割は大変重要なものであると思いました。
また報告会では、木村健太郎氏(NPO法人 宮城県森林インストラクター協会)が「森林ボランティアの「生きぬく力」―「貢献」と「楽しさ」の発見と創造―」と題して講演されました。
講演では、木村氏の所属する宮城県森林インストラクター協会のユニークな活動内容や、これからの森林ボランディア団体のあり方についての鋭い指摘が、ユーモアを交えて語られました。
森づくり活動を継続する上での大きな課題は、活動を若い世代にいかに引き継いでいくか、という点にありそうです。木村氏の協会では、より多くの人に継続して参加してもらえるように、さまざまなワザを使っているといいます。たとえば、女性専用の伐採コーナーや個人用の花壇(ニックネームが付けられる!)を設けて、女性が安心して作業に取り組める環境を整えたり、竹とんぼや輪ゴムでっぽうを用意して、子どもが楽しみながら木竹材に興味を持てるように工夫したり...。
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大学にいるだけでは知ることのできない、地域の方々の熱心な取り組みの一端を垣間見、目ん玉飛び出っぱなしの実践生S氏とゴーナイだったのでした。
(内)
あけましておめでとうございます!
あけましておめでとうございます。
今年も実践教育プログラムをよろしくお願いいたします。
センターから見えた初(仕事の日の)日の出(出きってますが)
今年は、2月からプログラム第1期生のインターンシップと留学がはじまります。公共政策スタディーズ、企業活動スタディーズコースの学生はそれぞれの派遣先で、一ヶ月にわたり仕事を経験することになります。グローバル・スタディーズ・コースの学生も、海外での新しい生活をはじめます。学生のみなさん、存分に学んできてください!
また、現在第2期生の募集も行っています。インターン先や留学先の情報、履修の内容等、なんでも質問してください。理学部インフォメーションセンター2Fのセンター窓口まで御越しいただくか、こちらまで連絡してください。
さー今年も頑張っていきましょう!!
(内)
NPO主催の講演会に参加しました
12月12日(金)に、山形創造NPO支援ネットワーク設立15周年記念事業「地域の未来づくりとNPOの役割」に参加してきました。
認定NPO法人 山形創造NPO支援ネットワーク さんへは、実践教育プログラム公共政策スタディーズ・コースから学生1名が、次の春休みにインターンシップに参加する予定です。学生の希望を尊重して受け入れを快諾してくださり、ありがとうございます!
今回は、光栄にもその設立15周年記念講演会への参加をお許しいただき、インターン予定の学生Y氏と私ゴーナイで勉強に行って参りました(`◇´)ゞ
最前列に座って全力でメモを取る実践生のY氏(見づらくてスイマセン)
講演は、椎川忍氏(一般財団法人地域活性化センター)、田尻佳史氏(日本NPOセンター常務理事)のお二人が登壇されました。
椎川氏は「地域の未来づくりとNPOの役割」という題で、地域で活躍する人材を育成することの重要性を説かれました。特に印象深かったのは、公務員も地域に飛び出して、住民と一緒に地域づくりを行っていく必要があるというお話です。地域を豊かにするためには、ときに行政区分を超えて、関係する住民やNPOと協力しなければならない。県や市といった境界を絶対視せず、組織の壁を飛び越えて活動できるような人材を育てること、また彼らが活躍できるような環境を整えていくことが必要である、ということでした。
田尻氏は「日本のNPO これまでの15年これからの15年」という題のとおり、日本におけるNPOのありようの来し方行く末について講演されました。すなわち、国‐県庁‐市町村といった上意下達の行政システムでは、地域の多様化なニーズに応えることが難しくなってきており、NPO等市民活動への期待がますます高まっている。日本のNPOは、阪神淡路大震災後に脚光を浴び、地方分権化の流れのなかで推進されてきた。それは「新しい公共」(鳩山首相)から「共助社会づくり」(安倍首相)へと名前を変えつつ語られる社会像においても、ますます重要なものとみなされてきている。私なりに要約すると、概ねそのようなお話でした。また、田尻氏は、特に地方のNPOであるほど、公的資金のみに依存した運営を行っている、つまり行政の下請け的な役割にとどまってしまっている傾向があると指摘していました。今後は、そのような「補完型」から「創造型」へと、NPOの事業形態を変えていくことが求められているということです。
講演会のあとは、東北地区にあるNPOの支援センターの方々の会議にも参加させていただきました。Y氏ともども、目の前で繰り広げられるハイレベルかつガチンコな議論に圧倒され、帰りの車では「凄かったね!」「凄かったですね!」と小学生並の感想交換会が催されたのでした。
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貴重な機会をあたえてくださった 山形創造NPO支援ネットワーク のみなさん、本当にありがとうございました!
(内)
壮大な命の物語
大学構内のイチョウの木々に残る葉も少なくなり、山形は冬将軍の到来を静かに待っています。黄金色の絨毯は間もなく、白銀に覆われることでしょう。いろいろな土地で何度となく眺めてきたイチョウの黄葉ですが、この秋は格別な思いで見つめました。英国の植物学者、ピーター・クレインの著書『イチョウ 奇跡の2億年史』(河出書房新社)を読み、この木をめぐる壮大な物語を知ったからです。著者は冒頭に、ドイツの文豪ゲーテが詠(よ)んだイチョウの詩を掲げています。
はるか東方のかなたから
わが庭に来たりし樹木の葉よ
その神秘の謎を教えておくれ
無知なる心を導いておくれ
おまえはもともと一枚の葉で
自身を二つに裂いたのか?
それとも二枚の葉だったのに
寄り添って一つになったのか?
こうしたことを問ううちに
やがて真理に行き当たる
そうかおまえも私の詩から思うのか
一人の私の中に二人の私がいることを
初めて知りました。シーラカンスが「生きた化石」の動物版チャンピオンだとするなら、イチョウは植物の世界における「生きた化石」の代表なのだそうです。恐竜が闊歩していた中生代に登場し、恐竜が絶滅した6500万年前の地球の激動を生き抜いたにもかかわらず、氷河期に適応することができずに世界のほとんどの地域から姿を消してしまいました。欧州の植物学者はその存在を「化石」でしか知らなかったのです。
けれども、死に絶えてはいませんでした。中国の奥深い山々で細々と生きていたのです。そしていつしか、信仰の対象として人々に崇められるようになり、人間の手で生息域を広げていったとみられています。著者の探索によれば、中国の文献にイチョウが登場するのは10世紀から11世紀ごろ。やがて、朝鮮半島から日本へと伝わりました。
日本に伝わったのはいつか。著者はそれも探索しています。平安時代、『枕草子』を綴った清少納言がイチョウを見ていたら、書かないはずがない。なのに、登場しない。紫式部の『源氏物語』にも出て来ない。当時の辞典にもない。鎌倉時代の三代将軍、源実朝(さねとも)は鶴岡八幡宮にある木の陰に隠れていた甥の公卿に暗殺されたと伝えられていますが、その木がイチョウだというのは後世の付け足しらしい。間違いなくイチョウと判断できる記述が登場するのは15世紀、伝来はその前の14世紀か、というのが著者の見立てです。中国から日本に伝わるまで数百年かかったことになります。
東洋から西洋への伝わり方も劇的です。鎖国時代の日本。交易を認められていたのはオランダだけでした。そのオランダ商館の医師として長崎の出島に滞在したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが初めてイチョウを欧州に伝えたのです。帰国後の1712年に出版した『廻国奇観』に絵入りで紹介されています。それまで何人ものポルトガル人やオランダ人が日本に来ていたのに、彼らの関心をひくことはありませんでした。キリスト教の布教と交易で頭がいっぱいだったのでしょう。
博物学だけでなく言語学にも造詣の深いケンペルは、日本語の音韻を正確に記述しています。日本のオランダ語通詞を介して、「銀杏」は「イチョウ」もしくは「ギンキョウ」と発音すると聞き、ginkgo と表記しました。著者のクレインは「なぜginkyo ではなく、ginkgo と綴ったのか」という謎の解明にも挑んでいます。植字工がミスをしたという説もありますが、クレインは「ケンペルの出身地であるドイツ北部ではヤ・ユ・ヨの音をga、gu、goと書き表すことが多い」と記し、植字ミスではなく正確に綴ったものとみています。いずれにしても、このginkgoがイチョウを表す言葉として広まり、そのままのスペルで英語にもなっています。発音は「ギンコー」です。
「化石」でしか知らなかった植物が生きていたことを知った欧州でどのような興奮が巻き起こったかは、冒頭に掲げたゲーテの詩によく現れています。「東方のかなたから来たりし謎」であり、「無知なる心を導く一枚の葉」だったのです。「東洋の謎」はほどなく大西洋を渡り、アメリカの街路をも彩ることになりました。
植物オンチの私でも、イチョウに雌木(めぎ)と雄木があることは知っていましたが、その花粉には精子があり、しかも、受精の際にはその精子が繊毛を振るわせてかすかに泳ぐということを、この本で初めて知りました。イチョウの精子を発見したのは小石川植物園の技術者、平瀬作五郎。明治29年(1896年)のことです。維新以来、日本は欧米の文明を吸収する一方でしたが、平瀬の発見は植物学の世界を震撼させる発見であり、「遅れてきた文明国」からの初の知的発信になりました。イチョウは「日本を世界に知らしめるチャンス」も与えてくれたのです。
それにしても、著者のクレインは実によく歩いています。欧米諸国はもちろん、中国貴州省の小さな村にある大イチョウを訪ね、韓国忠清南道の寺にある古木に触れ、日本のギンナン産地の愛知県祖父江町(稲沢市に編入)にも足を運んでいます。訪ねるだけではありません。中国ではギンナンを使った料理の調理法を調べ、祖父江町ではイチョウ栽培農家に接ぎ木の仕方まで丹念に教わっています。鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウを見に行った時には、境内でギンナンを焼いて売っていた屋台のおばさんの話まで聞いています。長い研究で培われた学識に加えて、「見るべきものはすべて見る。聞くべきことはすべて聞く」という気迫のようなものが、この本を重厚で魅力的なものにしています。
かくもイチョウを愛し、イチョウを追い求めてきた植物学者は今、何を思うのでしょうか。クレインはゲーテの詩の前に、息子と娘への短い献辞を記しています。「エミリーとサムへ きみたちの時代に長期的な展望が開けることを願って」
壮大な命の物語を紡いできたイチョウ。それに比べて、私たち人間はなんと小さく、せちがらい存在であることか。
(岡)
*『イチョウ 奇跡の2億年史』は矢野真千子氏の翻訳。ゲーテの詩は『西東(せいとう)詩集』所収。
*ゲーテの詩のオリジナル(ドイツ語)と英語訳を参照してください。
*国土交通省は日本の街路樹について、2009年に「わが国の街路樹」という資料を発表しました。2007年に調査したもので、それによると、街路樹で本数が多いのはイチョウ、サクラ、ケヤキ、ハナミズキ、トウカエデの順でした。
《写真説明》
青森県の弘前公園にある「根上がりイチョウ」 Source:http://aomori.photo-web.cc/ginkgo/01.html
野外焼肉会開催
11月8日、公共政策スタディーズ・コースの学生でバーベキューをしました!
当日は秋晴れで日差しも暖かく、絶好の肉焼き日和となりました。
急遽の開催にも関わらず、9名の学生が集まってくれました!
今回来られなかったみなさん!次にも何かイベントするので待っててね!
(内)
黒毛和牛やで☆